明治期函館の中国人「アヨンさん」と史料調査報告

明治期函館の背景と華僑の活動
函館は1854年(安政元年)に開港した国際港で、明治維新後も対外貿易の拠点として機能しました。開港に伴い、中国(清国)からも多くの商人が来航し、昆布など海産物の取引に従事しましたja.wikipedia.org。とりわけ東南沿岸部(浙江省・江蘇省・江西省など「三江」地域)や広東出身の華僑が多く、彼らは函館で商社を営んだり通訳・会計係として活動しましたzjnews.zjol.com.cnja.wikipedia.org。1876年前後には在函館中国人による最初の自治組織「華商同徳堂」が設立され、華僑同士の連絡や対日交渉窓口の役割を果たしていますzjnews.zjol.com.cn。1880年(明治13年)時点で函館には30数名程度の中国人居留者がいたとの記録もありchinaqw.com、当時の函館における華僑社会は規模こそ大きくありませんでしたが、港町の経済活動を下支えする存在でした。
洋食店「養和軒」と提供された「南京そば」
こうした背景の中、1884年(明治17年)1月に函館で開業したのが洋食店「養和軒」ですrblmw.com。当時、函館には中華料理店がなく、中国出身者が創意工夫で料理を提供していた時代でした。養和軒は西洋料理と中国風の料理(南京料理)を提供する店で、開店広告が同年4月28日の『函館新聞』に掲載されていますhokkaidofan.comhiecc.or.jp。広告には「南京そば 15銭」と記されており、これが日本における「ラーメン」(当時は南京そば、支那そば等と称された)の最古級の記録とされていますhokkaidofan.comhiecc.or.jp。この新聞広告は、日本最初の中華麺の広告例として言及されており、函館ラーメン(塩ラーメン)のルーツとも位置付けられますhiecc.or.jp。当時提供された南京そばは透明な鶏ガラスープに塩味を付けたさっぱりした麺料理で、現在の函館塩ラーメンにつながる特徴(ストレート細麺に清澄な塩味スープ)を既に備えていたと考えられますja.wikipedia.orgrblmw.com。もっとも、この南京そばと現在のラーメンの詳細な連続性を示すレシピ等の一次資料は未発見であり、函館発祥説には慎重な見方もありますja.wikipedia.org。しかし養和軒の南京そば提供が日本におけるラーメン提供の嚆矢であるとの評価は有力ですrblmw.com。
アヨンさん(陳南養/陳養南)の人物像
「アヨンさん」は、この養和軒を経営した中国人の愛称です。日本語のカタカナ表記「アヨン」は、中国語名の音に由来する呼び名で、漢字表記としては「陳南養」(あるいは資料によって「陳養南」)と伝えられていますhokkaidofan.comrblmw.com。姓は陳、名は南養(養南)ですが、周囲からは親しみを込めて「阿養」(アヨン)と呼ばれていたとのことですrblmw.com。出身は清国・広東省で、函館に来る前は函館駐在の英国領事館で専属コック長を務めていましたhokkaidofan.comrblmw.com。明治期、函館には英国領事館(1859年開設)があり、西洋人居留地も形成されていました。その英国領事館で培った西洋料理の技術や、中国人としての本場の知識を生かし、陳南養は1882年(明治15年)1月に養和軒を開店したとされていますhokkaidofan.com。開店当初から南京料理を看板に掲げ、魚介類や鶏肉を用いた中国風料理を提供しましたhokkaidofan.com。彼が供した「南京そば(南京麺)」は、前述の通り日本初期のラーメンとして評価されています。
アヨンさん本人に関する当時の記録は限られていますが、函館市史や華僑団体の名簿にその名が確認されています。例えば、函館市が所蔵する明治期資料によれば、1879年(清・光緒5年)当時の華僑組織「華商同徳堂」の名簿に、陳南養(陳養南)が英国領事館職員として登録されていることがわかっていますrblmw.com。中国語の資料にもこのことが紹介されており、該当部分の記述は以下の通りです。
「餐厅老板陈南养,广东人,大家都叫他‘阿养(アヨン)’,原是英国驻函馆领事馆主厨,根据《函馆市史》保存的华侨组织‘华商同德堂’于清光绪5年(1879年)的资料显示,陈养南以英国领事馆工作人员的身份登记在册」rblmw.com
(日本語訳:「レストランの店主・陳南養は広東出身で、皆から『アーヤン(アヨン)』さんと呼ばれていました。彼はもともと英国函館領事館の専属コックであり、函館市史に保存されている清光緒5年(1879年)当時の華僑組織『華商同徳堂』の資料によれば、陳養南の名が英国領事館職員として登録されていることが示されています。」)
このように陳南養(アヨンさん)は、正式な移民記録や華僑組織の史料に登場する実在の人物であることが確認できます。領事館コックという経歴からもうかがえるように、西洋・中国双方の料理に通じた人物であり、函館の外国人社会および華僑社会においてユニークな役割を果たしたと考えられます。
中国側文献における「アヨンさん」の記録
調査の結果、中国本土の文献や研究においても「アヨンさん」こと陳南養に関する言及がいくつか見られました。近年の中国語資料では、彼の業績は主に「日本の拉麺(ラーメン)の草創」に関連して紹介されています。
- 中国のラーメン史研究での言及: 例えば中国のラーメン専門サイトによる記事「日本拉面简史(二战前・华人篇)」(日本のラーメン簡史〈第二次大戦前・華人編〉)では、**「1884年、広東出身の陳南養が函館に養和軒を創業し、メニューに南京そば(南京荞麦)を載せた。これは函館塩味拉面の源流であり、実証可能な史料があるため養和軒は日本で最も早くラーメンを売った店と認定されている」**と解説されていますrblmw.com。この記述から、中国側でも陳南養と養和軒の歴史的重要性が認識されていることがわかります。
- 中国語媒体での紹介: また、北海道と中国の交流史に関する中国語記事でも、養和軒の広告が日本初の中華麺広告であることや、その南京麺が現在の函館ラーメンに受け継がれていることが触れられていますhiecc.or.jp。例えば北海道政府関連の中文サイトでは、「1884年4月28日付の函馆新聞に、函館市内で南京料理を営む『養和軒』が『南京麺』を宣伝する広告を出しており、これが日本最初の中国麺の広告である」と紹介されていますhiecc.or.jp。このように、中国側の記事でも養和軒の存在と「南京麺」の提供が歴史的トピックスとして取り上げられています。
- 華僑史・移民史の記録: 中国の華僑史研究において函館華僑社会が論じられる際、主要な人物としては浙江省出身の張尊三(清末に函館–上海間の海産物貿易で成功し関帝廟再建を主導)などが挙げられますzjnews.zjol.com.cnzjnews.zjol.com.cn。陳南養は規模の大きな商工業ではなく料理業に従事していたためか、中国側の一般的な華僑史論文・記事で名前が大きく取り上げられることは少ないようです。しかし、前述のように華僑組織の名簿や地域史料にはその名が残されており、現代の研究者や愛好者がそれを掘り起こして紹介している状況ですrblmw.comrblmw.com。残念ながら、清末当時の中国の新聞(例えば上海の『申報』など)に陳南養や養和軒が登場したという記録は、今回の調査では確認できませんでした。函館の華僑社会は長崎や横浜ほど大きくなかったため、陳南養の活動は清国本土よりも日本国内(函館)の新聞や記録に留まっていた可能性があります。
結論
明治期函館における中国人コック「アヨンさん」(陳南養)は、日本初期のラーメン提供者として日中両国の記録にその足跡をとどめています。日本側の史料(新聞広告hiecc.or.jpや市史rblmw.com)によりその存在と活動が確認できるだけでなく、現代の中国側文献でも早期華人による日本拉麺の嚆矢として言及されていますrblmw.com。中国本土の一次資料で直接彼を扱ったものは見当たりませんでしたが、函館華僑社会の一員として華僑名簿に名前が残りrblmw.com、英国領事館付コックから華人料理店主へ転身した人物として評価できます。陳南養が供した「南京そば」は、北海道・函館に塩味ラーメン文化を根付かせる端緒となり、日本のラーメン史における象徴的なエピソードとして日中双方で認識されているのですrblmw.comhiecc.or.jp。
参考文献: 『函館市史』第2巻通史編(函館市刊行)、函館新聞(明治17年4月28日付広告欄)、北海道ファンマガジン記事hokkaidofan.comhokkaidofan.com、日本拉面网記事rblmw.comrblmw.com、北海道与中国交流数字资料馆hiecc.or.jp、中国・寧波網記事zjnews.zjol.com.cnなど。