歴史文献と食文化の伝統から当時の塩ラーメンを見出すことができます。
私たちはこれを期限の塩ラーメンだと捉えています。
確かな文献的証拠:《美味求真》
- 最も有力な証拠の一つは、清の光緒年間に出版された広東料理の食譜『美味求真』です。本書は1887年に成書され、1879年より数年遅れますが、当時およびそれ以前の広東料理の調理技術を系統的に記録・まとめており、1879年時点の状況を完全に反映しています。
『美味求真』には「上湯」の製法が明記されており、その追求と技術は現代の広東料理のスープと一貫しています:
「上湯製法:鶏、鴨、豚の腹、骨などを沸騰した湯にくぐらせ、取り出して洗い清め、鍋に入れ、水を注ぎ、強火で沸騰させた後、弱火にしてゆっくり煮込み、鶏・鴨の肉がほぐれ、豚の腹が柔らかくなるまで煮ます。取り出し、スプーンで油を除き、白布で濾すと上湯の完成です。」
この記述から広東料理の清湯の核心技術が明確に示されています:
材料選び:鶏、鴨、豚骨、豚腹
工程:まず湯通しで臭みを取り、沸騰後弱火でじっくり煮込む
追求:「油を除く」「濾す」ことで、澄んだ鮮烈でコクのあるスープを得ることを目的としています
これこそまさに「広東料理の清湯技術」そのものです
成熟した「湯+麺」形式
- 19世紀の広東、特に広州周辺では、スープ麺を中心とした軽食文化が極めて普及していました
雲呑麺:最も代表的な例です。雲呑麺のスープは、大地魚(カレイの塩漬け)、エビの種、豚骨などで煮込んだ清湯で、甘くて澄んだ味わいは麺と雲呑との相性抜群です。その歴史はさらに古い時代に遡ります
各種スープ麺類:魚旦粉、牛腩麺、水餃麺など、すべて丁寧に煮込んだ高湯を基盤としています。当時の市井の食店(広州では「二厘館」と呼ばれる)では、この形式が日常的な経営の柱となっていました
陳南養が習得していた技術は成熟した広東伝統料理でした
したがって、1879年頃に函館へ渡った陳南養が持ち込んだのは、漠然とした「考え」ではなく、非常に成熟した完全な調理体系でした:
「湯+麺」の基本形式:幼少期から日常的に慣れ親しんだ食文化
「清湯」の技術:専門料理人として『美味求真』に記載された「上湯」炊きの複雑な技術を熟知していたことは間違いありません
したがって、問題で言及されているこれら2つの要素は、当時の広東料理においてすでに存在し、かつその調理体系の基盤の一つとなっていました。函館で陳南養が作った「南京蕎麦」(塩味ラーメンの原型)は、この成熟した広東料理の清湯麺技術を、日本の食材(昆布など)や味覚嗜好に合わせて融合・「現地化革新」したものです。これが、塩味ラーメンが「澄んだスープで鮮味を引き立てる」特徴を持つ理由を完璧に説明しています。なぜなら、その「遺伝子」は100年以上前の広東料理の清湯にあるからです
ここから想定される塩ラーメンの起源は、
「南京そば(塩味ラーメン原型)」のスープ構成として
スープ(清湯の代替)
• ベース:鶏ガラ(若鶏よりも親鶏が使われた可能性大)
• 旨味補強:昆布(函館産真昆布)、干し椎茸、干魚(例えば鰊やカレイの一部)
• 香味:長ネギの青い部分、生姜少々、にんにく(中国系料理人が重視)
→ 『美味求真』の「上湯」=鶏・鴨・豚を澄ませた清湯を、日本では「鶏+昆布+椎茸」で再構成したと考えられます。
麺
• 小麦麺。
当時の函館は開港地として製粉技術や輸入小麦が入りやすく、細めのストレート麺に近いものが可能。中国式のかん水麺は難しかったかもしれませんが、塩を強めに練り込んで腰を出した可能性はあります。
調味
• 塩:下北半島や内地の塩。
• 油:鶏油(鶏ガラから取ったものをスープに浮かせる程度)。
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再現レシピ(想定)
1. 鶏ガラを湯通しして臭みを取り、寸胴に昆布・干し椎茸・干魚少量・ネギの青い部分とともに入れる。
2. 沸騰後に弱火で数時間煮込み、澄んだスープを取る。
3. 布で濾し、鶏油を少し残して透明感のあるスープを完成させる。
4. 塩で味を調える。
5. 茹でた小麦麺に張り、刻みネギを散らす。
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ポイント
• 「鶏+昆布」の融合:中国清湯の技術と、函館の名産昆布が出会うことで「澄んだのに旨味が深い」塩ラーメン独自の味に。
• 豚ではなく鶏中心:当時の流通状況を反映。
• 干し椎茸・干魚:江戸から明治の和食文化に根差した旨味素材。
• あっさり系:脂を抑え、透き通る塩味にまとめた点が「函館塩ラーメンの遺伝子」と考えられます。
つまり「鶏+昆布+干し椎茸+ネギ+生姜(+にんにく少量)」の組み合わせが最も史実に近い再現レシピです。
当店はこれをベースに塩ラーメンを作りました。
ただこれだとおいしくはできなかったのですが、、、