函館塩ラーメン起源

塩ラーメンの起源と日本への広がりについて

日本における塩ラーメンの起源を探る

1. 塩ラーメンの歴史的起源

日本でラーメン(当時は「南京そば」「支那そば」と呼ばれました)が誕生したのは明治時代後期とされています。開国後の港町への中国人移住により、中国風の麺料理がもたらされましたtakumen.comtakumen.com。特に広東系の料理人たちは、醤油を使わず塩で調味した澄んだスープの麺料理(いわゆる塩ラーメンの原型)を提供しており、これが日本初期のラーメンの姿でしたtakumen.com。実際、函館横浜など明治期の開港都市では、中国人経営の屋台で麺料理が人気を博したと伝えられていますtakumen.com。1872年(明治5年)には横浜の唐人街で「柳麺(ラウメン)」の屋台が出始めていたとの記録もありますja.wikipedia.org

中でも北海道の函館は、日本のラーメン文化発祥の地として有力視されています。1884年(明治17年)、函館市船場町の養和軒という中華料理店が地元紙の広告に「南京そば 15銭」と掲載し、麺料理の提供を宣伝しましたoceans.tokyo.jp。これは**「南京そば」という名前で記録された中華麺料理として日本最古の例であり、この広告掲載日(1884年4月28日付)をもって「日本初のラーメン誕生」とする説がありますserai.jphokkaidofan.com。当時の広告文には「5月8日より魚や鶏肉を使った南京料理をお出しします」とあり、下等料理として南京そば(15銭)**が記されていましたhokkaidofan.com。この南京そばが現在でいう塩味ラーメンであった可能性は高く、澄んだ鶏ガラや豚骨のスープを塩で調えたシンプルな麺だったと推測されていますtakumen.comoceans.tokyo.jp。函館港は1855年に開港して以降、多くの華僑が移住して料理店を営んでいたため、当地にいち早くラーメン文化が根付いたと考えられますoceans.tokyo.jp

ただし、この**養和軒の「南京そば」が現代のラーメンと同種であるかどうかは断定できません。当時を直接知る関係者は既になく、文献も広告一件のみで材料や調理法の詳細が不明なためですja.wikipedia.org。当時の日本人には豚骨出汁の風味が馴染まず、養和軒の南京そばは大衆に広まるには至らなかったとも指摘されていますserai.jp。この状況を大きく変え、日本のラーメンを定着させる契機となったのが、後述する東京・浅草の來々軒(来来軒)**の登場でした。

2. 塩ラーメンの発明者:最初に提供した人物・店

日本で塩ラーメン(南京そば)を最初に考案・提供したとされるのは、前述の函館「養和軒」です。その創業者で料理長でもあった陳南養(ちん・なんよう)という人物が、塩ラーメンの“発明者”に該当しますhokkaidofan.com。陳南養は清国・広東省出身で、函館の英国領事館で専属料理人を務めた経歴を持つ優秀な料理人でしたhokkaidofan.com。明治15年(1882年)1月、陳南養は「函館に中国料理店がないのは残念だ」と感じ、自ら洋風二階建ての店を構えて養和軒を開業しましたhokkaidofan.com。店名の「養和軒(アヨン)」は彼の愛称に由来しますhokkaidofan.com。養和軒では中国料理のフルコースだけでなく、手頃なメニューとして**南京そば(塩味スープの麺料理)**を提供し始めますhokkaidofan.comhokkaidofan.com

陳南養が提供した南京そばは、鶏肉や魚介で出汁を取った澄んだスープに、中国から取り寄せた手延べ麺を合わせたものでしたhokkaidofan.comtakumen.com。具材は特になくシンプルで、塩味ゆえに素材の旨みが引き立つ一杯だったようですtakumen.com。これは、麺そのものの食感や味を重視する広東人の嗜好に合ったスタイルであり、当時の屋台文化における日常食としてシンプルさが求められたためとも考えられますtakumen.com。養和軒の南京そば一杯15銭は当時としては手頃な価格で、開店以来店は繁盛したといいますhokkaidofan.com

しかし先述のように、陳南養の南京そば自体は当時の日本人一般には大流行はしませんでしたserai.jp。日本人が本格的にラーメンを受け入れるのは、その約20数年後に東京で登場した尾崎貫一による**「來々軒」での醤油ラーメンからですhokkaidofan.comserai.jp。來々軒は塩ではなく醤油味のスープでしたが、陳南養が日本で最初に塩味のラーメンを提供した人物**であることは間違いありませんoceans.tokyo.jp。彼の功績により、日本の北の地でラーメン文化の火種が灯ったのです。

3. 塩ラーメンの発展と普及の流れ

黎明期から大正期にかけて、ラーメンは各地で少しずつ形を変えながら広まりました。養和軒の南京そば以来、横浜や長崎などの港町にも中華麺文化が伝わり、1910年には東京浅草の來々軒が開店して日本初のラーメンブームを巻き起こしますserai.jp。來々軒のラーメンは豚骨と鶏ガラの清湯スープに醤油ダレを合わせ、チャーシュー・メンマ・刻みネギを具にしたもので、これが現在の醤油ラーメンの原型となりましたserai.jp。塩味ではなく醤油味でしたが、日本人好みのあっさり風味に仕立てたことで大評判となり、1日2500人以上を集める繁盛店になったと伝えられていますserai.jp。來々軒の成功によって**「ラーメン」という料理が広く認知されるようになり**、大正末期には東京・横浜以外の地方都市にも進出していきましたserai.jp。また1922年創業の札幌「竹家食堂」では、当初中国人留学生向けに塩味ベースの肉絲麺(中華そば)を提供しており、これが後に醤油味に改良され「ラーメン」と呼ばれるようになったとされていますja.wikipedia.orgserai.jp。実は竹家食堂こそ、「ラーメン」という呼称が生まれた店とも言われます(料理ができあがると中国語で「好了(ハオラ=できたよ)」と掛け声をかけ、それを聞いた日本人客が「ラー・メン」と音を当てたという説)serai.jp。このように昭和初期までに**各地で塩・醤油など様々な味の「支那そば」**が根付いていきました。

戦後の普及期には、ラーメンはさらに全国へ飛躍します。第二次世界大戦後の混乱期、満州や中国から引き揚げてきた人々が各地で屋台のラーメン屋を開業し始めましたraumen.co.jp。1945年以降、闇市や路地に無数のラーメン屋台が出現し、安くて栄養のあるラーメンは物資の乏しい時代に人々の空腹を満たす庶民の味として急速に定着しますraumen.co.jp。この時期、調味料として手に入りやすかった「塩」が活躍しました。醤油や味噌は戦時中から生産が停滞し贅沢品だったのに対し、塩は比較的安価で入手しやすかったためですhenchikurin.jp。その結果、戦後復興期のラーメン屋台では塩味スープのラーメンが広く提供されるようになり、素材本来の旨みを活かしたシンプルな塩ラーメンが多くの人々に受け入れられていきましたhenchikurin.jp。この流れの中で、函館など従来から塩ラーメン文化のあった地域では一層その地位が確立し、「函館といえば塩ラーメン」として定着していきますoceans.tokyo.jp

高度経済成長期以降は各地でご当地ラーメンブームが起こり、味噌ラーメンや豚骨ラーメンなど新たな味も誕生しましたが、塩ラーメンもインスタント食品の普及によって全国区の知名度を得ます。特に1971年にサンヨー食品が発売した袋麺「サッポロ一番 塩らーめん」は画期的でした。当時まだ塩ラーメンの味は一般的に馴染みが薄かったのですが、この製品がヒットしたことで塩味のラーメンが全国に広く認識される一助となりましたja.wikipedia.orgja.wikipedia.org。サッポロ一番シリーズは醤油味・味噌味に続く第三弾として塩味を投入し、日本人に「ラーメンには塩味もある」という発見を与えたのですja.wikipedia.org。以降、他メーカーからも塩味の即席麺が発売され、家庭でも手軽に塩ラーメンを味わえるようになりました。

地域ごとのバリエーションも豊かになっていきます。北海道では前述の函館塩ラーメンが有名で、透明な清湯スープにストレート細麺、具材はチャーシュー・メンマ・ネギというシンプルなスタイルが伝統ですoceans.tokyo.jp。函館塩ラーメンは札幌味噌、旭川醤油と並ぶ「北海道三大ラーメン」の一つに数えられ、地元の味として長く愛されていますoceans.tokyo.jp。一方、本州以南では塩ラーメンを名物とする土地は多くありませんが、近年ではご当地活性化の文脈で塩ラーメンを打ち出す例も見られます。例えば兵庫県赤穂市は古来より塩の名産地であり、地元産塩を使った「播州赤穂塩ラーメン」を8軒の協力店で提供するプロジェクトが立ち上げられましたnavi.mints.ne.jp。各店が工夫を凝らした塩ラーメンを提供することで、「塩の街」赤穂の新名物として売り出していますnavi.mints.ne.jp。また福島県会津地方では、温泉の塩を煮詰めて作る「山塩」をスープに活かした会津山塩ラーメンが注目を集めていますnlab.itmedia.co.jp。裏磐梯の大塩温泉で採れる天然の山塩を用いたスープはまろやかな塩味が特徴で、喜多方ラーメンに次ぐご当地ラーメンとして観光客にも人気ですnlab.itmedia.co.jp

このように塩ラーメンは日本各地で独自の発展を遂げてきました。素材の風味を引き立てる塩味スープは、「あっさりしていて上品」「胃に優しい」といった理由で幅広い世代に親しまれ、現代では塩専門のラーメン店も各都市で見られます。東京でも黄金色の澄んだスープが評判の名店や、ゆずなどで香りづけした創作塩ラーメンの店が人気を博しておりleon.jp、塩ラーメンの多様なトレンドが生まれていますhenchikurin.jp。海外においても、日本のラーメンブームの中で塩ラーメンはヘルシーで素材本来の旨味が楽しめる一品として評価され、各国のラーメン店で提供されるようになっていますhenchikurin.jp

総じて、日本の塩ラーメンは函館に始まり、戦後に庶民の味として広まり、インスタント食品や地域振興策を通じて全国区の存在となったと言えます。その歴史には、中国から来た料理人の知恵と工夫、日本人の嗜好に合わせた改良、時代背景による普及の波といった要素が折り重なっています。以下に、塩ラーメンにまつわる主な出来事や代表的な店を時系列で表形式にまとめました。

年代(時期)出来事・店名(所在地)解説・エピソード
1884年(明治17年)養和軒の「南京そば」提供開始(北海道函館)日本初のラーメン提供の記録。広東出身の陳南養が洋食店養和軒にて塩味ベースの「南京そば」を一杯15銭で販売oceans.tokyo.jp。澄んだスープの中国麺料理で、日本の塩ラーメンの原点とされるoceans.tokyo.jp
1910年(明治43年)淺草來々軒の開店(東京浅草)尾崎貫一が横浜から中国人職人を招いて來々軒を創業。醤油味の支那そばを看板メニューとし大流行させたserai.jp。豚骨・鶏ガラ清湯スープ+醤油ダレにチャーシュー・メンマ・ネギを添え、現在のラーメンの原型を確立serai.jp。塩ラーメンではないが、ラーメン普及史上重要な出来事。
1922年(大正11年)竹家食堂の創業(北海道札幌)竹家食堂(のち竹家)は札幌の中華料理店。開店当初、在札幌の中国人留学生向けに**塩味の「肉絲麺」**を提供していたja.wikipedia.org。後に日本人の好みに合わせ醤油味に改良し、料理人の「好了(ハオラー)」の掛け声から「ラーメン」の呼称が生まれたとの説があるserai.jp
戦後(1945〜50年代)全国への屋台普及(各地の闇市・屋台)終戦直後、各地に引揚者らが屋台ラーメンを開業raumen.co.jp。物資不足の中、調味料の塩を活用したシンプルなラーメンが安価で栄養のある食事として庶民に浸透henchikurin.jp。各地のご当地ラーメンの原型がこの時期に形づくられた。
1971年(昭和46年)「サッポロ一番 塩らーめん」発売(全国)サンヨー食品がインスタントラーメン「サッポロ一番」の塩味を発売ja.wikipedia.org。醤油・味噌味に次ぐシリーズ第3弾で、塩ラーメンの味を全国区に広める契機となったja.wikipedia.org。以後、塩味の即席麺が定番化し、家庭でも塩ラーメンが親しまれる。
現代(平成〜令和)塩ラーメン文化の継承と発展(函館ほか各地)函館では滋養軒(創業1947年)など塩ラーメンの老舗が現在も人気で、函館塩ラーメンは北海道三大ラーメンの一つとして定着oceans.tokyo.jp。また兵庫県赤穂の播州赤穂塩ラーメンnavi.mints.ne.jpや福島県裏磐梯の山塩ラーメンnlab.itmedia.co.jpなど、土地の特産塩を活かしたご当地塩ラーメンも登場し、日本各地で塩ラーメン文化が多様に展開している。

以上のように、日本の塩ラーメンは**函館発祥の「南京そば」**から始まり、各地の文化や時代背景に合わせて変遷しながら発展してきました。塩ラーメンの歴史を辿ることで、そのシンプルながら奥深い味わいの裏に、中国伝来の出汁文化や戦後日本の知恵、そして各地域の風土が織りなす物語が見えてきます。その伝統は現代にも受け継がれ、日本のラーメン文化の中で確かな存在感を放ち続けています。oceans.tokyo.jpserai.jp