先日、中野ZEROで「ラーメンのはじまり」というテーマでお話しさせていただきました。
私たち合同会社FIELDは、函館で「養和軒ぷらす」というラーメン屋をやっています。店名の由来は、明治17年(1884年)に函館で「南京そば」の広告を出した洋食店「養和軒」。日本のラーメンの起源のひとつとされるお店です。それもあって以前からラーメンの歴史を調べており、今回はその延長でお話ししました。
この記事では、当日の発表内容を図や表を交えてまとめます。発表スライド(PDF・24ページ)は記事の最後からダウンロードできます。
結論:ラーメンの起源はひとつではない
一杯の丼で「合流」して生まれた。
ラーメンは「ある日だれかが発明した料理」ではありません。素材(小麦)は中東、形と技術(麺・かんすい・肉スープ)は中国、そして日本では奈良時代以来の麺文化と江戸の屋台文化の上に、明治の開港後に華僑が持ち込んだ南京そばが重なって成立しました。
3行でいうと
| 起源 | 場所 | 中身 | ポイント |
|---|---|---|---|
| 素材の起源 | 中東 | 約1万年前に小麦が栽培化。東へ伝わり、中国北部には紀元前3千年紀ごろ到達。 | 「小麦」という素材のルーツ |
| 麺の形の起源 | 中国 | 最古の麺は青海省・喇家遺跡(約4000年前、キビとアワ)。6世紀『斉民要術』に小麦の麺+肉汁。 | 麺の形と製粉技術は中国で確立 |
| かんすいの技術 | 中国北方〜広東 | アルカリ性の水で麺にコシと黄色。元代『居家必用事類全集』に経帯麺(13〜14世紀)。 | うどん・そばと分ける決定的要素 |
| 日本の起点 | 函館・浅草 | 1884年 函館・養和軒(最古の広告記録)/1910年 浅草・来々軒(大衆化の起点) | 広東系の湯麺文化が基盤 |
ラーメンを構成する3つの要素
ラーメンを「ラーメン」たらしめているのは、小麦粉の麺・かんすい・肉や骨のスープの3つです。この3つは別々の時代・別々の場所で成立し、最後に日本で合流しました。それぞれがいつどこで成立したかを追うと、「ラーメンの始まり」がひとつの出来事ではないことが見えてきます。
| 要素 | 成立の流れ(いつ・どこで) |
|---|---|
| 小麦粉の麺 | 小麦の栽培化(約1万年前・中東)→ 最古の麺の実物(約4000年前・青海省喇家遺跡/キビとアワ製)→ 回転式石臼の普及(戦国〜漢代)→ 製法記録「水引餅」(6世紀『斉民要術』) |
| かんすい | 中国北西部〜内モンゴルの天然ソーダ湖・地下水・植物灰 → 元代『居家必用事類全集』の「経帯麺」(13〜14世紀)→ 蘭州牛肉麺は今も植物灰「蓬灰」を使用 → 明治の開港後、華僑が日本へ |
| 肉・骨のスープ | 6世紀『斉民要術』に「肉臛汁」でこねる水引餅 → 広東の湯麺(鶏ガラの澄んだスープ+かんすい細麺)→ 開港後、華僑が動物系スープを日本へ |
小麦の故郷は中東
出発点は約1万年前、現在のトルコ南東部からシリア、イラクにまたがる「肥沃な三日月地帯」です。ペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川をさかのぼり、シリアを経てパレスチナ、エジプトへと弧を描く地域で、古代オリエント史でよく使われる歴史地理の言葉です。ここで小麦の栽培が始まりました。
北海道のベーカリスタ株式会社のレポートによると、最古の小麦はヒトツブ小麦などの野生種が原点で、そこから「フタツブ小麦(エンマー小麦)」や「スペルト小麦」へと自然交配を繰り返して進化したそうです。
何度も言いますが、この時点ではまだただのパンです。麺という形は、このあと中国で生まれます。
最古の麺は中国・青海省で見つかった
小麦ではなかったものの、麺を作る文化はすでにあった。そこへ小麦がやってくれば、当然小麦で麺を作り始めますよね、という流れです。
石臼と「餅」:小麦が粉ものになる
小麦は粒のままでは調理しにくく、麺にするにはまず粉にする必要があります。戦国時代〜漢代に中国で回転式の石臼が普及し、小麦粉をこねた食べ物の総称「餅(ビン)」の文化が花開きました。日本のお餅(もち米)とは別の概念で、蒸す・煮る・焼くなどさまざまな調理法を含みます。
今でも中国の西安などに行くと、麺とパンと餅の境目はけっこう曖昧です。
6世紀に「小麦の麺+肉汁」が揃う
6世紀の華北で、ラーメンの3要素のうち2つ(小麦の麺と肉のスープ)が揃いました。ただ、まだ今のようなもちもちとしたコシはありません。かんすいがなかったからです。
西方とインドの麺:別の道を歩いた麺たち
中国は麺をラーメンの方向へ発展させましたが、ユーラシアの各地でも麺料理は独自に発達しています。ラーメンの直接の祖先ではなく、比較のための親戚のような存在です。
| 時代 | 記録 | 内容 |
|---|---|---|
| 2世紀 | ガレノス「イトリオン」 | 小麦粉と水を練った食品に言及。ギリシャ医学の最古級の記録。 |
| 3〜5世紀 | 『エルサレム・タルムード』 | 茹でた生地「イトリウム」への言及。 |
| 9世紀 | シリア語辞書「イトリーヤ」 | セモリナ粉を紐状にして乾燥させる技術。 |
| 11世紀 | 『テュルク語集成』 | 中央アジアの切り麺「トゥトマチ」、細い麺「ウグレ」。 |
| 1154年 | イドリースィーの記録 | シチリアで乾麺イトリーヤを大量生産・輸出。のちのパスタへ。 |
| 12世紀 | 南インド『マーナソーッラーサ』 | 細麺「セーヴィカー」。牛乳や砂糖と煮る甘い麺としても知られる。 |
なぜ、かんすいでコシが出るのか
灰やかんすいに含まれる炭酸カリウム・炭酸ナトリウムを水に溶かすと、炭酸イオンが水から H⁺ を引き寄せるため、結果として OH⁻ が増えて pH が上がり、アルカリ性になります。
歴史の文献ではなく化学の話ですが、ここがラーメンとうどん・そば・パスタを分けるいちばんのポイントです。
中国で「ラーメンの部品」が揃う
小麦と肉や骨のスープを合わせた料理はすでにありました。そこへ、中国北西部〜内モンゴルの天然ソーダ湖・地下水・植物灰などのアルカリの水を合わせてみたら、「ん? コシがあっておいしくない?」となった。これがラーメンの完成につながったと考えられます。
日本のラーメンの直接の親は「広東の湯麺」
幕末に横浜・神戸・函館へ渡った華僑の多くは広東省出身でした。彼らが故郷で食べていた湯麺(タンメン)は、もうラーメンと呼んでいいレシピです。
※「ラーメン」の語源は拉麺・柳麺・老麺など諸説ありますが、味や製法の直接の親は広東の湯麺と考えるのが有力です。
日本の麺文化は明治以前から積み上がっていた
| 年代 | 出来事 | 確度 |
|---|---|---|
| 8世紀 | 小麦粉を紐状にした「索餅(さくべい)」が唐から伝来。素麺の祖先とされる。 | 有力 |
| 1241年 | 宋で学んだ禅僧・円爾が水車を使う製粉技術を博多・承天寺に伝えたとされる。 | 伝承 |
| 1488年 | 京都・相国寺の『蔭凉軒日録』に、経帯麺を作って客にふるまった記録。日本最古の中華麺の確実な一次史料。 | 確実 |
| 1574年 | 長野・定勝寺の文書に「そば切り」の語が登場。 | 確実 |
| 1665〜1697年 | 明の儒者・朱舜水が水戸藩主・徳川光圀に中国式の麺を伝えたという話。かんすいを使ったかは不明。 | 伝承 |
| 江戸時代 | 蕎麦・うどんの屋台や外食が江戸の町に普及。明治以降にラーメンを受け入れる土台に。 | 確実 |
明治以前にも麺はたくさんありましたが、そのほとんどはかんすいを使わず、だしも昆布・鰹節・味噌が中心でした。明治以降に加わったのが、かんすいの麺・動物系スープ・中国人料理人です。
開港と「南京そば」
1859年、横浜・長崎・函館が開港し、1868年には神戸も開港しました。通訳・買弁・料理人として中国人が来日し、居留地のそばに南京町ができます。彼らが中国人社会のために作っていた麺料理が「南京そば」です。
函館・養和軒:記録に残る最古の「南京そば」広告
図書館などで実際に確認できる最古の記録は、明治17年(1884年)4月26日付『函館新聞』に載った、函館・船場町の洋食店「養和軒」の広告です。広告を出したのは、広東省出身で函館の英国領事館の料理人も務めたと伝わるアヨンさん。私たちの店名「養和軒ぷらす」は、このお店に由来しています。
| 上等料理 一人前 | 1円 |
| 中等料理 一人前 | 75銭 |
| 下等料理 一人前 | 50銭 |
| 南京料理 | [判読不明] |
| 南京そば | 15銭 |
| 南京菓子 | [判読不明] |
| 焼肉 | 10銭より小売り |
── 養和軒 アヨン(現代語訳)
| 確度 | わかっていること |
|---|---|
| 確実 | 『函館新聞』明治17年4月26日付の広告が存在する。 |
| 有力 | 店主は広東出身で、英国領事館の料理人だった(複数の資料が支持)。 |
| 推定 | 味は塩味の澄んだスープだった(広東系湯麺からの類推。レシピの詳細は残っていない)。 |
浅草・来々軒:日本人向けに大衆化
1910年、元横浜税関職員の尾崎貫一が、横浜南京町から広東出身の料理人12人を招いて浅草に来々軒を開業しました。高級中華ではなく、支那そば・ワンタン・シューマイを安く出す大衆店です。「最初のラーメン屋」としてよく名前が挙がるのは、この初めての大衆向け中華だったからです。
この構成がのちの東京ラーメンの原点となり、全国の「中華そば」に影響を与えました。1944年に浅草での営業を終え、戦後は東京駅八重洲口で再開、1976年に閉店。2020年には創業者の子孫が新横浜ラーメン博物館で味を復活させています。
函館と浅草、どちらが「はじまり」?
全国に広がるきっかけは浅草。
全国へ、そして世界へ
年表:約1万年前から1994年まで
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 約1万年前 | 中東「肥沃な三日月地帯」で小麦の栽培化が始まる |
| 約4000年前 | 中国・青海省喇家遺跡に最古の麺(キビ・アワ製) |
| 530〜540年代 | 『斉民要術』に水引餅の製法(最古の麺の製法記録) |
| 13〜14世紀 | 『居家必用事類全集』にかんすいを使う経帯麺 |
| 1488年 | 京都・相国寺で経帯麺をふるまう(日本最古の中華麺の確実な記録) |
| 1859年 | 横浜・長崎・函館が開港し、華僑が来日 |
| 1884年 | 函館・養和軒が「南京そば 十五銭」の広告(最古の広告記録) |
| 1910年 | 浅草・来々軒が開業。日本人向けに大衆化 |
| 1937年 | 久留米・南京千両。九州豚骨ラーメンの源流 |
| 1958年 | 日清食品がチキンラーメンを発売 |
| 1971年 | カップヌードル発売。日本式即席麺が海外へ |
| 1994年 | 新横浜ラーメン博物館が開館 |
調べてわかった「よくある誤解」4つ
ラーメンは「一度に伝わった料理」ではない
ラーメンは「はい、ラーメンですよ」と完成品の形で日本にやってきたわけではありません。小麦料理、かんすいの技術、そして大衆化というステップを経て、少しずつ定着していきました。
函館・養和軒が最古の記録を残し、浅草・来々軒が大衆化させ、戦後の小麦と屋台、インスタントラーメンが全国に広げた。ラーメンは、4000年の移動と合流の歴史を一杯の丼に凝縮した食文化です。
束晳『餅賦』(3世紀・西晋)
孟元老『東京夢華録』(宋代)
『居家必用事類全集』(元代)
亀泉集証『蔭凉軒日録』長享2年(1488年)条
『日乗上人日記』元禄10年(1697年)条
『函館新聞』明治17年(1884年)4月26日付広告
『エルサレム・タルムード』(3〜5世紀)
Mahmud al-Kashgari, Dīwān Lughāt al-Turk
al-Idrisi, Kitab Rujar(1154年)
Someshvara III, Mānasollāsa(12世紀)
石毛直道『麺の文化史』
K. T. Achaya, Indian Food: A Historical Companion
S. Serventi & F. Sabban, Pasta: The Story of a Universal Food
南廣子「『斉民要術』の料理構造」
新横浜ラーメン博物館「室町時代にラーメン!?経帯麺」
日本経済新聞「日本初のラーメン、黄門様でない?」
サライ.jp「知られざる『ラーメン』の歴史」
北海道ファンマガジン
横浜市観光情報「淺草 來々軒が新横浜ラーメン博物館に復活」
日本ラーメンファンクラブ/近代食文化研究会
福岡市/全国中華料理生活衛生同業組合連合会

